生きるとは。

この世は、陰と陽で成り立っている。
全ての出来事の中には、良いこともあれば良いこともある。
全ての中には、光もあれば闇もある。だから、本来は物事には良いも悪いもない。全ては、無であり、空(クウ)である。
物事の良し悪しは、ただ生きてきた中で培われた経験や知識、立場によってそれぞれが判断しているに過ぎない。
幸せとは、光の中にいることではなく、例え闇の中にいたとしても一寸の光を見い出し、自分自身の内側から光を放つことができる状態。
闇を知らずして、光の存在に気づくことが出来ない。
暗闇で、暗いと不平不満を言わずとも、既に光はそこにある。自分自身の内側に。そこに気づけないのは、心が曇っているからだ。
『心の岩戸を開けるのは、そなた自身。周りがどんなに踊り狂うても楽しく笑い、誘っても本人の意思なくして岩戸は開かん。』
この地球に生まれし者たち、人類の目的は、アセンションである。人間は、人との関わりの中で、自分自身の本当の姿を見つけ出し、誘(いざな)われて人柱となる。人柱とは、高次元の自分自身の神と繋がること。神人合一。それが本来の姿。

光が強ければ闇も深い。
光が強くなればなるほど、闇はその光を取り込もうと襲ってくる。闇は、自分自身の内側にある光に気づけないのだ。
光を放つものは、自分自身を知り、良いところも悪いところも丸ごと自分自身だと受け入れている。
闇を拒絶するなかれ。
本来は、良いも悪いもない。
物事の良し悪しは、関わる他者の存在によって意味あいが大きく変わってくる。性格の長所短所も相手次第で、薬にもなり、毒にもなる。一方では讃えられ、一方では誹謗中傷を与えられる。光もあれば闇もある。全ては、陰陽のバランスで成り立っている。
この世の中の循環は、自分の長所で他者に貢献し、短所で他者を活かすことで成り立つ。だから、皆同じと言うことはあり得ない。十人十色。それぞれが自分自身のお役目を全うすれば、色とりどりの光の花が咲き、そこは地上の楽園になる。
この世は自己完結。他者との交わりの中で、愛を知り、自分自身の愛に気づくこと。
愛とは、恋愛だけではなく、家族愛、師弟愛、人間愛、友情、情熱、芸術愛、音楽、スポーツ…あらゆることのエネルギーが集中する全てのこと。
現世のミッションは、自分自身の魂が設定してきた愛のカタチを学ぶこと。
人は、自身の写し鏡である他者の姿から自分の内側にあるものに気づき、自分が何を考え、何に感動し、喜びや悲しみなどの喜怒哀楽を学び、限りない自分自身の愛を完成させる。

人生とは、完璧な自分の『愛』と言うパズルを誕生と共にリセットして、この世に産み落とされ、生涯にわたって、その欠片を探し完成させるゲームのようなもの。

この世の中は全て愛でできている。
最後に残るのは、自分自身である『愛』そのもの。
それが全て。

生きるとは、そういうこと。

自分自身、周りとの関わりの中で常に「最善」を模索している。自分が良かれと思ってしたことも相手にとっては受け取りがたいものだったり、愛とすら認識されない場合もある。
自己犠牲で生きた場合、相手が良しとするならば、せめてもの救いだが、拒絶された場合、両者もろとも闇に堕ちる。不幸の連鎖。裏と表は常に一体。至福と絶望も裏表。
良し悪しは、受け取り側の立場や精神状態でも変わるので、何がいいかはその人自身にしか分からない。結局は、自分が良しとするものが全てなのだから、自分自身が常に心地よくいられるように自分自身のご機嫌は自分自身で取るしかないのだ。何を受け取るかは自分次第。
相手に求めている時は与えられず、自分自身が与えることによって満たされる。
与えることは、受け取ること。受け取ることは、与えること。真逆の世界を受け入れることで、真実を知る。

全てはつながっている。

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